過疎地域神社活性化への取り組み

乎彌神社

令和6年05月15日

通 称  
鎮座地 滋賀県長浜市余呉町下余呉2053
旧社格 村社
本務兼務の別 本務
氏子数 121世帯 393人
神職数

1名

宮 司 間所 日出司
選定理由 過疎地域である余呉町は、少子高齢化等厳しい地域であるが、県内でも極めて敬神の念の厚い地域であり、神宮大麻暦の頒布も県内有数である。第1期において余呉地区内における神職や子供巫女等の相互扶助がすすみ、県内最初の施設一体型小中一貫校も3年前にスタートしており、教育目標の“ふるさと学習”により、地元の伝統文化の学習が始まっている。第1期3ヶ年目であった令和2年末には、太皷踊り保存会と小中学校との話し合いにおいて、太皷踊りの役者(小太鼓・大太鼓・鉦・笛等)の地元不足人数を小・中学校生徒に助成してもらう協議も纏まっている。宮司も熱心であり、神社役員、地域全体での取組みが見込めるため、選定した。
神社の由緒と概要

当社の創始は悠久の上代で、その年詳らかならずと雖も、往昔この地に繁栄せし天之児屋根命一世の孫、巨知人命の後裔が、同命を祖神として祀り、後また巨知人命の御子、梨津臣命が威徳優れ、この地の開発に努められた。恵澤を憶ってこれを別殿に奉祀した。これ当社の始めである。

巨知人命を奉仕せし社を「乎彌神社」と奉称し、梨津臣命を奉仕せし社を「乃美神社」と奉称し、両社とも延喜の制による式内神社である。

而して中古、下余呉の郷は、北組南組の2組に別れ、北組は乎彌神社を、南組は乃美神社を奉斎し来ったが、賤ヶ岳合戦の兵火のため両社の殿舎悉く焼失したるが故に仮の一社殿を築造して両祭神を合祀し奉斎したが、降って寛延2年(1749年)1月両組相議って、更に規模広大なる一社殿を再築し、両祭神を合祀し父神を祀り来った乎彌神社を以て社名となし、両組ともその氏子として相和して今日に至った。

尓来1月8日を以て合祀記念祭を行い、現今に及んでいる。

当社は余呉湖尻の水の流れる要所たる故にか、承応年間(17世紀)に海神海津見命をも合祀したのである。

葢し往昔は、海また湖は同一視したもので、欺くこの要所に海神を合祀した事はうなずかれるところで、当社に「海神宮」の古額面を所蔵するのも、之に出るものである。江戸時代以降早魃の年、田圃灌漑の水不足の場合、下流の村落黒田、北木之本、南木之本、千田、唐川の五ヶ郷の農民が「河尻堀」と称し、数千人の群衆社前に参集し十一樽の神酒と種々の神饌を献じ、神慮を伺い、然る後湖尻の江戸川を浚渫し、流水量を多からしめ、田圃を灌漑して神恩を感謝したのである。

而して江戸幕府の後葉、彦根藩主(井伊侯)の大規模浚渫の施工と水門の設置により、早祓毎における農民の浚渫の要なきに至り、従来の十一樽の神酒献供の事も跡を絶つに至ったが、これに代って藩主井伊候の奉賽は毎歳続けられて明治維新に及んだ。

明治10年(1877)村社に列し、昭和12年神饌幣帛料供進神社に指定された。

明治の末葉迄当社鎮座の地域内に、別に村草神社、大名持神社、八幡神社、塞神社の鎮座があったが、時の政府の指示に随って当社に合併合祀されるに至った。

村草神社(祭神天照皇大神)は江戸区の守護神であり、八幡神社(祭神譽田別尊)は、北組の守護神であった。大名持神社(祭神大名持命、少彦命)は、当社の近傍に鎮座ありしと謂われ、塞神社(祭神八衢比古神、八衢比女神、久那土神)は本郷区の中央の広場、みちのしたと称する地に鎮座されたのである。欺く道路通行の守護神が祀られるに至ったのは、この地往昔、北越に到るの要地であるとともに、権現坂を経て西近江に到る分岐の路の基点でもあったので、この神が祀られるに至ったものと考覈される。

明治初年迄このところに、俗に「かんじゃの木」と称する大木があって、神霊の憑り給う木として崇めたというが、1200から1300年の樹齢更らに保ち難く枯死した。この「かんじゃの木」は「勧請の木」の木転訛なるべく、古人が神霊を勧請して祭祀をいたしたものであろう。

当郡の北辺は、山岳重畳し北陸また西近江に入る険路にあたり、その守護の神たるもので、道しるべの神として猿田彦神の顕現また奉斎があった事などを想えば、近畿より北陸に入るのが難路にこれらの神々が祀られたことも偶然でないとされよう。

以上4社の合併祭も、当社における恒例1月8日の合併記念祭に神名を称えて祭祀されるのである。

当社の千燈庭燎祭は、浄闇迫るの頃、神前に千燈を点火して神秘の祭儀が営まれる。

その前日から氏子の各戸悉くが背に負い、持ち来た「ま木」が斎庭の中央に山と積まれし上に松の大樹、一と本が神霊の表識の如くに建てられる、それに神前の燈火を移し「みほぎのよごと」を奏上するに、火は忽ちに夜空をこがし荘厳神秘の極みの裡に、氏子を始め遠近の参拝者等手ぶり床しい古式踊りに時の遷るを忘れ、その踊の輪は広い斎庭に溢れ二夕重三重と展開する。

この神事は青年たちの行事として例年9月8日を以て斎行され来ったが、近年その青年の各々の職務の関係上、土曜から日曜に行われるに至った。

年間の祭祀祭礼・行事予定

歳旦祭(1月1日)、合併記念祭(1月16日)、鎮火祭(1月31日)、祈年祭(2月21日)、例祭(4月8日)、子供祭 5月5日)、大祓祭(6月30日)、太皷踊り奉納祭(8月8日)、慰霊祭(8月15日)、野神祭(8月22日)、燈明祭(8月28日)、老人感謝祭(10月10日)、虫干祭(10月17日)、新嘗祭(11月23日)、大祓・年越祭(12月31日)

活動方針

・余呉町内の少子高齢化の進捗状況は、県内の他地区より極めて顕顕であるも、町内の他の氏子地域とも連携して往時のような賑やかな祭事が持続可能となるようにしたい。…太皷踊り奉納祭

・地元に江州音頭取り集団(が柳会)があるも、燈明祭の江州音頭の踊り子の輪に加わる人が少なくなってきている。また、町内の他の氏子地域では、夏祭り等にて江州音頭を境内で踊る地域も数少なくなっており、できれば一地域でも復活してもらいたい。(音頭取りは、乎彌神社のが柳会派遣可能)…燈明祭等夏祭りの活性化、復活

・生存する戦没者遺族が年経るごとに減少するなか、我が神社での戦没者慰霊祭は、遺族会主催で斎行しているが、町内他地域では慰霊祭斎行すらなされていない地域あり。今の日本の繁栄はお国の為に散り逝きし先人達の尊き犠牲のうえにあることに鑑み、慰霊祭の復活や、各字にある戦没者慰霊碑の存在意義を戦争を知らない子供達に知らしめたい。

活動計画

1年目 

太皷踊り奉納祭の復活。長浜市余呉町では、県内最初の施設一体型小中一貫校が3年程前にスタートした。教育目標に、ふるさと学習があり、地元の伝統文化を学習している。昨年来、太皷踊り保存会と小中学校との話し合いで、太皷踊りの役者(小太鼓・大太鼓・鉦・笛等)の地元不足人数を小中学校の児童生徒に応援してもらうことで、実施する。

2年目 

燈明祭等夏祭りでの江州音頭による境内での大踊りの復活を図る。

3年目 

10年程前に消滅した、町内戦没者慰霊祭の復活を図る。(以前は、神式と仏式で一年毎交互に行っていたとか。)

各字(あざ)の慰霊碑の有無、管理状況、慰霊祭の斎行有無等の調査や、町内神職達と相談のうえ、少しずつでも、祭事復活を果たす。

無形民俗文化財指定

太皷踊り奉納祭―滋賀県選択無形民俗文化財

備 考 第2期過疎地域神社活性化推進施策【施策1】指定神社(令和3年~令和6年6月末日)
  (令和5年2月現在)

 

この神社のその他の事業