通 称 | |
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鎮座地 | 沖縄県宮古島市平良字西里5-1 |
旧社格 | 無格社 |
本務兼務の別 | 兼務 |
氏子数 | 約5万人 |
神職数 | 4名 |
宮 司 | 渡慶次 馨 |
選定理由 |
第1期に引続き宮古神社を選定させて戴きたい。 宮古神社は、宮古島市5万5千人の崇敬をうける、宮古島総鎮守のお社であり、初詣には例年約3万人の参拝者がある。特にこの3年間は、第1期過疎地域神社活性化推進施策指定地域の選定を受け、特に例祭へのマスコミ報道等に力を入れ、参拝者の増加、また地元崇敬者との協力関係がかなり確立されてきており、将来の発展が特に期待される神社である。 |
神社の由緒と概要 |
昔、宮古島志里萬の里の、大首里大屋子(地頭職)平良が、首里の王府へ貢納品を納めての帰路、海上で逆風に遭い高麗(朝鮮)へ漂着した。異国の賊とみなされ正に斬られんとした時、彼は故国の神々に祈り、地に「琉球」の二文字を書き示した。漸く琉球漂着人たることが認められて5年間手厚くもてなされ、更に中国の北京へ送られ3年を経て、琉球からの進貢船の便を得て8年目に故国へ帰り着いた。平良は是皆故国の神々の御蔭であると、波上宮の神(熊野三神)を宮古へ勧請して篤く祀った。 即ち宮古権現堂の創始である。慶長18年には島津氏の指示で、琉球王朝は瓦葺の立派な社に造営をし、明治以降も権現堂として祀られて尊崇を集めた。 大正14年7月、平良町では西里1番地に町社・宮古神社を創建して、与那覇恵源(宮古開基の祖)仲宗根玄雅(宮古中興の英主)を祀るとともに、公認の神社にすべく申請するが、紆余曲折の中、社殿は台風や白蟻の被害を蒙り改築等も望まれるに至る。 迎えて、昭和15年には、紀元2600年の記念事業として、新宮古神社を県社に昇格・造営せんことを宮古全島を挙げて決議し、県も亦積極的にこれを支持した。 而うして、総鎮守宮古神社には権現堂三神の合祀とともに境内地を西里5番地(旧平良市民会館の地)へ移し、昭和16、7、8年と造営工事は成され、18年には本殿遷座祭、奉祝大祭を挙行。国では県社昇格差支えなしと決定を見るに至った。 しかしながら、壮麗を誉った新社殿も戦災に遭い、荒廃の中で終戦を迎えた。 戦後は、御祭神を一時漲水御嶽へ奉遷申し上げ、社殿は外地からの引揚者に供された。そうした中、昭和24年「宮古神社復興期成会」が組織され、昭和31年には祭神に宮古統一の祖目黒盛定政が増祀せられた。沖縄本土復帰の昭和47年、宮古神社境内地には平良市民会館が建てられたため、神社最初の境内地であった西里1番地(現境内地)には小社殿を建て、戦後の復興計画はすすめられた。 やがて昭和54年、期成会長砂川玄隆氏は、神社復興に取組み、漸くして昭和55年11月社殿、社務所、その他の施設がすべて竣工した。 平成12年12月26日、「御鎮座四〇〇年」・「町社御創建七十五年」を記念しての「宮古権現鎮座四〇〇年大祭」ならびに「神おなりご巡行」が、全島民挙げて盛大に斎行された。 このように、「宮古神社」は、宮古全島(八島)の総鎮守として群民からの尊崇を集め、また日本最南端のお社として知られ県内外からも篤く敬仰されている。 |
年間の祭祀祭礼・行事予定 |
歳旦祭(1月1日)、元始祭(1月3日)、節分祭(2月3日)、紀元祭(2月11日)、祈年祭(2月17日)、春分祭(春分の日)、昭和祭(4月29日)、夏越大祓(6月30日)、宮古島夏まつり(7月)、秋分祭(秋分の日)、神嘗祭当日祭(10月17日)、例大祭(10月26日)、明治祭(11月3日)、七五三祭(11月15日)、新嘗祭(11月23日)、天長祭 (12月23日)、御煤納(12月25日)、大祓(12月31日)、除夜祭(12月31日) |
活動方針(将来の展望) | 地域の各団体にて、「祭礼実行委員会」的な組織をつくり、教化活動、祭礼行事の活性化、地域との連携に力を入れてゆきたい。 |
活動計画 |
1年目 例祭の広報活動に力を入れるとともに、「祭礼実行委員会」を組織する。 2年目 1年目に引続き、例祭の広報活動に力を入れるとともに、「祭礼実行委員会」組織を強化する。 3年目 引続き、例祭の広報活動に力を入れるとともに、2年間で築き上げた「祭礼実行委員会」を通じて、教化活動、祭礼行事の活性化、地域との連携を強固なものとする。 |
無形民俗文化財指定 |
指定なし |
備 考 | 第2期過疎地域神社活性化推進施策【施策1】指定神社(令和3年~令和6年6月末日) |
(令和5年2月現在) |