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通 称 | |
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鎮座地 | 京都府久世郡久御山町佐山双栗55番地 |
旧社格 | 郷社 |
本務兼務の別 |
兼務
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氏子数 | 280世帯 1,000人 |
神職数 | 1名 |
宮司代務者 |
中嶋 茂博 |
選定理由 | 佐山地区と林地区の氏神神社。本殿修復中。定年を迎えた氏子が中心に運営。各地区から2年任期にて交代で総代に6名が就任。責任役員と共に運営している。しかし、少子化が深刻化している。付近は空き家が増えている。府道沿いは賑わっているが付近には住宅はある。しかしその先は田園風景に。 |
神社の由緒と概要 |
社伝によれば、当社は羽栗郷(佐山村)・殖栗郷(佐古村)・拝志郷(林村)の鎮守社であった。やがて佐古村に若宮八幡宮が創建されると、雙栗神社は佐山・林の二ヵ村の氏神となる。社名の由来は定かでないが、羽栗と殖栗の間に鎮座していたから雙栗と称したといわれ、また、この地を支配した古代豪族の羽栗氏の祖神を祀った氏神社で、羽栗が双栗に転訛したともいわれている。 雙栗神社は、貞観元年(859)正月27日に従五位下の神位を賜り、延喜の制には小社に列せられた。『延喜式神名帳』にも「雙栗神社三座」と記され、古くから神社の存在していたことがわかる。 また、延宝4年(1676)の奥書をもつ「椏本八幡宮縁起」によると、天治2年(1125)2月、この地に大きな椏の木があり、毎夜鳩峯(男山)より金色の光がさしてこの木に輝いた。郷民はおそれおののき、日が暮れると戸を閉して一歩も外へ出るものはなかった。7日後、「椏の木のもとに八幡宮を勧請し、国家安全を祈らば我よく庶民を守るべし」と、橘氏に夢のお告げがあり、氏は朝廷に願いでて椏の木のもとに神祠を造立した。 その後、応保2年(1162)に勅使が立てられ、勲一等を受け椏本一品八幡宮と号し、神田を賜ったという。これは石清水八幡宮の神威が全国に広がり、佐山郷一円の地が八幡宮の荘園になったころ、社名が変えられ八幡神崇拝につながっていったのであろう。したがって当社も神仏習合の顕著な八幡宮の影響を受けて、佐山・林に五ヵ寺の神宮寺が建立され、社殿には大般若経600巻が納められていた。 やがて明治に入ると神仏は分離され、神宮寺は廃寺となった。社殿に保存していた大般若経は、佐山の大松寺に移管し、明治15年(1882)、椏本一品八幡宮の呼称は、雙栗神社の旧号に復されている。 |
年間の祭祀祭礼・行事予定 |
元旦祭(1月1日)、御神差(粥占神事)(1月15日)、節分祭(2月3日)、春祭り(祈年祭)・学業祈願祭(入・進学祈願)(3月下旬)、八朔祭(五穀豊穣疫病除祈願)(8月31日)、神幸祭(おいで)(10月7日)、宵宮祭(御旅所)(10月8日)、還幸祭(おかえり)(10月9日)、新嘗祭(新穀感謝祭)(11月23日)、大晦日祭(12月31日) |
活動方針(将来の展望) | 次世代への継承 60代後半から70代の人たちは神社に関わっているが、その人たちの子供達も都会に出ている。せめて現在住んでおられる子供夫婦や孫に神社に関わって欲しい。 |
活動計画 |
1年目 コロナ禍にて子供神輿も出ず。できることが少なかった。日頃は社務所も閉めているが、日を定めて総代が当番にて授与所を開けた。本年正月から朱印を始めた。氏子に正月の巫女を募集し奉仕して戴いた。祈年祭には初めて神社庁職員の奉仕により朝日舞を奉納することとし、地域の人に広報し、役員総代以外に約50人が参列した。その他何ができるか調査した。 2年目 氏子の子供達に浦安の舞を指導し祭典に奉納してもらう機会を作る。 現在行っている修復事業の進捗状況を広報し文化の継承の大切さを体験してもらう。 3年目 今まで関わりのなかった人たちに境内に足を運んでもらう機会を作ってゆく。 |
無形民俗文化財指定 | 指定なし |
備 考 | 第2期過疎地域神社活性化推進施策【施策1】指定神社(令和3年~令和6年6月末日) |
(令和5年2月現在) |