通 称 | |
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鎮座地 | 福井県坂井市三国町安島23-15-1 |
旧社格 | 郷社 |
本務兼務の別 | 本務 |
氏子数 | 約340世帯 約900人 |
神職数 | 2名 |
宮 司 | 松村 典尚 |
選定理由 |
過疎地域に該当する神社ではないが、都市部から離れており人口の減少がみられる地域である。廃れてしまった祭祀の復興をしようという動きがあり、復興を図ることで神社の維持発展へとつなげてゆきたい。 選定神社は地元で観光地としてもある程度の知名度があり、てこ入れ次第で発展する可能性が十分ある。世帯数も340世帯と問題がない。 また、宮司は現在49歳であり、基準③に適合する。県神道青年会では活発に活動に参加し、県教化委員会本宗奉賛部員として意欲的に取組んだ実績も鑑み、指定に適当であると判断した。 |
神社の由緒と概要 |
当社は白雉年間勧請と伝えられる。延喜式内の古社であり、往昔異国の軍船が当国へ渡来した時、当神社の大神等が松ヶ原の岡(今の陣ヶ岡)において、霊験を顕わし夷賊を退治し給われしことが、後文武天皇の叡聞に達し、大宝元年2月20日三頭の勅使が当浦に下向されて、3700石余の社領を御寄進賜わり、それより当社を弓矢の神様と崇め参拝祈願の人々は神前に矢の羽を奉納されることとなった。殊に海上守護の神様と仰ぎ当港へ輻輳する船舶は必ず当社に参拝されて船の危難除に神前の矢の羽を願いうけて海上安全を祈願する人々が絶えなかったと記されている。 文治2年の秋、源義経公が奥州へ下降される途中当地に止宿され、当社へ参拝され家臣亀井六郎重清の兜一領を神前に奉納、一門の武運と海上の安全を祈願した。(兜今ニ宝蔵ス) (公の宿舎は時の庄屋久末七平宅 当社の神主は松村豊尚の代と伝えられている) 後永禄年間朝倉義景公の参拝を賜わり一門の祈願所に定められ社領など加増せられた。天正年中迄は社家7軒にて社務が執り行われていたが、織田信長当国発向の砌、当社の社殿は兵火に罹り社領はまた悉く没収されるところとなったので、慶長年間迄毎年2月20日より陣ヶ岡において、神主村役人等が相集まり会場に向かって怨敵退治の二タ手(ふたて)の矢の神射式が10日間盛大に執り行われたが、神主等が無禄となったので7家の社司の内6家まで余儀無く餘業に転じ、このため当社の特殊神事として古くから伝えられた行事も行い難く遂に中絶の已む無きに至った。古老の伝えるところによれば天保の頃まで朧げながらもその古実の遺風をとどめ海上に向かって 「ヤヤノオカカノカドサシテ シュー」 と一声に唱えて矢を射られたとまたこの状形を詠まれた歌に 弥生三日浜のわらべの歌声に ややのおかかのどさせと呼ぶ(天保3年古老の記録) 上の神事が行われたと伝えられる陣ヶ岡の移籍に今も儀式に用いられた名称が地名、字名となって残されている。 その後福井藩主松平忠直公が当社の由緒等お取調べになり、社殿の御造営並びに高二拾石の御社領が寄進され領内大社14社の内の祈願所に定められ、一門の崇敬厚く、ここに漸く社務も復興したので、古実に因み、それより嵩村を御旅所と定め毎年2月20日、21日(現在は3月20日、21日)の両日に改め神領拾ヶ村を各村送りで神事祭が行われるようになってから現在尚奉仕されているのが、お獅子さまで親しまれてきた当社の春の御渡の神事である。こうした信仰を中心とされた行事のもとで、神領雄島の村の広大な土地の支配が行われた荘園時代の古い制度の名残が偲ばれ、村内の文化の中心地であったかがうかがわれる。 |
年間の祭祀祭礼・行事予定 |
元旦祭(1月1日)、宅神祭(1月1~3日)、どんど焼き(1月15日)、神幸祭(3月19日~21日)、例大祭(4月20日、前日、和布献供祭)、椿祭(5月3日)、豊漁海上安全祈願祭(8月29・30日)、秋季例祭(10月20日) |
活動方針(将来の展望) | 古の祭祀を再興することで、氏子により一層、誇りある氏神を祀る神社として認識して戴く。また、調査結果の広報にも力を入れ、崇敬者の拡大も図る。 |
活動計画 |
1年目 行政や専門機関等の協力を得て、失われた古の祭祀の調査。 2年目 1年目の調査結果を経て、3年目の再興行事、もしくは故実にちなんだ新規行事の準備期間。 3年目 再興行事、もしくは故実にちなんだ新規行事の実施。 |
無形民俗文化財指定 | 指定なし |
備 考 | 第2期過疎地域神社活性化推進施策【施策1】指定神社(令和3年~令和6年6月末日) |
(令和5年2月現在) |