通 称 | |
---|---|
鎮座地 | 長野県北安曇郡小谷村大字中土13722 |
旧社格 | 郷社 |
本務兼務の別 | 本務 |
氏子数 | 62世帯 130人 |
神職数 | 2名 |
宮 司 | 杉本 英彦 |
選定理由 |
第1期に続き継続して活動を支援すべく選定する。 本年には当該神社の重要祭事である「薙鎌打ち神事」を斎行する年であり、県内外より参拝者を迎える年となり、本神社に対する注目が最も集まる年度であることから、例祭での神輿渡御や獅子舞を始めとする神事芸能の後継者育成を一層進めたいとの当該神社よりの強い要請により第1期より継続して選定した。 |
神社の由緒と概要 |
往古より、旧小谷七か村の総鎮守、国境鎮護の神社。「諏訪間」の旧社地は、ご祭神建御名方大神入信の折、ご滞留の霊地ともいう。白鳳年間仁科王社殿を建立と伝えられ、旧郡史では、創立天平9年とされる。 伝承では「国司武五百建命の末孫または国司と関係をもった豪族(仁科氏)が随臣をして国境巡視、「諏訪間」に御祭仕え奉り、薙鎌と鏡献上。諏訪大神の国形見にならい神木に薙鎌打ちを実施、後世に至る。後、諏訪祝「部」の職となり7年に一度規定の巡行の折、頭約状渡し薙鎌神殿に納め祝詞奏上、終りて国境巡視を定例とす。」とある。応永23年領主飯森山城主盛照のもと小谷七騎の保護を受けたが、文亀元年の地滑りにより現在地に移転した。後、別当神宮寺の創建もあり、現存している。飯森氏が武田信玄により滅亡後、信玄の下、小谷五騎が国境管理、神事の保護に努めた。元和5年金原周防守の手により本殿が造立され、現在県文化財。信玄の後、松本藩の保護を受け、信越国境紛争の折、当社に勝訴祈願、天保の大凶作時、国境の農神守護として霊札祈願あり。明治に至り国、神社界の制度が変わったが、国境鎮護の神社としての意識信仰は残り、戦前までは北安曇郡下にて国境鎮護の神社として尊崇を受けた。昭和4年佐野坂以北当社崇敬社は「社費負担調書」によると1万2千戸と記され各村より協賛を受けてきた。 |
年間の祭祀祭礼・行事予定 |
|
活動方針(将来の展望) |
・現状を何とかする。外部からの参拝者を工夫して増やす。氏子の認識を涵養する。 ・氏子の力に合った行事に簡略化し絶やさないようにする。引続き郷土出身者との連携を深める。 |
活動計画 |
1年目 ・薙鎌神事を何とか実施するとともに、この祭事の機会をとらえ、郷土出身者に働きかけ崇敬者を増やし募金活動を活発にし、将来訪れる神社危機、特に社殿の維持に備える。 ・薙鎌神事共催神社の財政支援に努力し、連携を図る。企業の神事への理解を深め協力を得る。 2年目 ・郷土出身者に働きかけ崇敬者を増やすとともに、それらの人々の当社に対する関心理解を涵養する。 ・引続き神社保持の諸芸能、文化財の維持。神社建造物の補修と維持。 3年目 ・郷土出身者に働きかけ崇敬者を増やすとともに、それらの人々の当社に対する関心理解を涵養する。 ・引続き神社保持の諸芸能、文化財の維持。 |
無形民俗文化財指定 |
奴踊りと奴唄、狂拍子、式年薙鎌打ち神事―長野県指定無形民俗文化財 |
備 考 | 第2期過疎地域神社活性化推進施策【施策1】指定神社(令和3年~令和6年6月末日) |
(令和5年2月現在) |