通 称 | |
---|---|
鎮座地 | 岩手県二戸市福岡字松の丸21 |
旧社格 | 県社 |
本務兼務の別 | 本務 |
氏子数 | 1,000世帯 5,000人 |
神職数 | 4名 |
宮 司 | 小保内 威彦 |
選定理由 |
当該神社は県北地域の核となる神社であるが、少子高齢化により人口減少が顕著であり、宮司は少なからず将来への不安を抱いている。しかしながら、神職及び氏子・崇敬者の相互扶助により今後、諸種の方途を講じて祭祀の厳修と神社の振興を図り、更なる神社の維持・発展と周辺地域の活性化を望んでいることから選定するものである。 |
神社の由緒と概要 |
呑香稲荷神社は「とんこういなりじんじゃ」と読む。 地元では「どんこう」と濁音で呼ばれることもある。また単純に「いなりさん」とも呼ばれる。 当社は、延暦20年(西暦801年)に出羽国(現在の山形県)の大物忌神社を勧請し浄法寺村稲岳に祀ったのが始まりといわれている。 貞元親王(清和天皇の第三皇子)の孫にあたる源重之の母親が託宣により宮野の里に遷座し稲荷大神と称えていたが、九戸政実と豊臣軍の戦いがあり、戦乱を避けていったん津軽に遷座した。宮野落城により、別城である松の丸を修理増築して26代南部信直公が移られ宮野は福岡と改められた。稲荷大神は、二戸郡漆沢村に御遷幸となった。 27代利直公の時、秋田城之介の家臣であった小保内源左衛門が主家没落のため今の盛岡市仙北町で南部家に仕えていたが、もともとの南部家臣たちから後ろ指をさされるのに憤慨し北に向かった。二戸郡漆沢村に至った際、その夜に霊夢があった。稲荷大神より宮野の地に祭るよう信託を受けた源左衛門は、翌朝福岡城下に赴き、三日町(現在の五日町)が清浄の地としてふさわしいと考え、一祠を建立した。そして、天和2年(1682年)、2月3日の夜に遷座となった。 そのころ、南部氏の幼君が疱瘡を病んだが、幼君は枕元に白髪白衣の老人がありて我を看護せり、この老人は稲荷大神なり決して心配すべからずと話しそれから南部氏の稲荷大神への崇敬がいよいよ厚くなった。 天和3年(1683年)に呑香稲荷大明神の神号を受けている。神号を受けて以来、代々の南部藩主が崇敬した。中山より北の総鎮守として、農業・商業・漁業・工業の守護神として厚い信仰を受けてきた。 ご祭神は、宇迦廼御霊命。 藩政時代には神輿渡御の際の警護役の前駆、後乗には千石格の士が指名される慣例であったため、千石の格式があるといわれてきた。 例祭日は9月5日で、戦後は、秋葉神社、愛宕神社と合同した三社祭として9月5・6・7日に秋祭りを行ってきた。(現在の二戸祭は9月第一金・土・日に行われている。)呑香稲荷神社のお祭りは「三社祭」といわれているが、もともとは、尻口山のオセド山の山中にあった神明社(後に五日町に遷座)、宮野八幡平にあった八幡宮を合祀したため、三社と呼ばれた。 旧暦正月2日には、釜鳴神事、新暦5月2日には、境内にて湯立神事が行われ、多くの氏子崇敬者の方が参列されている。 |
年間の祭祀祭礼・行事予定 |
元旦祭(1月1日)、祈年祭・釜鳴神事(旧暦正月2日)、 春祭・湯立神事(5月2日)、例祭(9月5日)、新嘗祭(11月23日) |
活動方針(将来の展望) |
鎮守の神社としての役割の増進。 御祈祷だけではなく、日常の中で神社に参拝してもらいたい。地域・人との関はりの増加、岩手県北地域の核となる神社としての地域教化の推進。 |
活動計画 |
1年目 ・地域と関わりを持つ事業を通して神社の広報活動を強化し、関心を深める。 ・マスコミや地域広報の積極的利用・令和3年度新規事業…境内での夢あかりの実施、地域企業と共同での授与品の作製、夏詣の実施等。 2年目 ・小中学生を対象とした体験会の実施を通して、関心を深める。 ・神楽体験や各種ワークショップ等の開催。(会場となる社務所水回り施設のリフォームを検討中) 3年目 ・前2ヶ年の成果を踏まえた更なる事業の展開を図る。 |
無形民俗文化財指定 |
指定なし |
備 考 | 第2期過疎地域神社活性化推進施策【施策1】指定神社(令和3年~令和6年6月末日) |
(令和5年2月現在) |