過疎地域神社活性化への取り組み

川口神社

令和6年05月09日

通 称  
鎮座地 宮城県亘理郡亘理町荒浜字明神西190番地1
旧社格 村社
本務兼務の別 本務
氏子数 234世帯 530人
神職数 1名
宮 司 渡邊 恵理子
選定理由

川口神社は平成23年に発生した東日本大震災の大津波により社殿と境内建物、また氏子地域に甚大な被害を受けた。氏子は仮設住宅へ移動後、他の地域へ移り住む者も少なくなく、少子化や過疎化の影響を受け、近年は地域人口が大きく減少した。それに伴い地域住民の生活様式も変わることとなり、神棚を新たに設ける家庭よりも神棚を処分する家庭が増えた。更に氏子数の減少に伴い、地域住民と神社への協力体制の構築に苦心しており、改めて神社関係者及び協力団体との体制を強固にすることで更なる発展が見込まれる。

また、震災以降、なかなか取組むことができなかった教化活動や神賑行事に力を入れることで、氏子崇敬者に対して興味や関心を持ってもらう機会が増え神社活性化へ繋がることが期待される。

尚、過去に東日本大震災による教化振興対策実践神社に指定された経緯があるが、当時は先代宮司が高齢かつ復興が半ばという状況にあったため十分な活動ができず今回改めて指定をするに至った。

神社の由緒と概要 川口神社は、荒浜の町をお守りになる鎮守のお社で、寛永12年旧3月20日(西暦1635年)亘理城主伊達成実の勧請といい伝えられている。祭神は、五穀を司る宇迦之御魂神、山を司る大山祇神、土を司る埴山姫神、海を司る大海津見神、水を司る水波之賣神、食物を司る保食神、武を司る誉田別命、雨を司る鳴雷神の八柱の神である。初め新浜湊神社と称していたが、正保2年(1645年)米沢の藩主上杉播磨守が多額のお金を寄附して、神社を治めていた、京都の吉田兼敬という神祇大副にお願いして、「大明神」の号を貰い、川口の2字をつけて、川口大明神と唱えるようになった。天和3年(1683年)頃から新浜の地がだんだん開け、人家が83戸になり、この頃から新の字を荒に改め、荒浜と唱えるようになった。享保16年(1731年)11月、阿武隈川の川口が閉塞し、天領であった伊達信夫郡のお米や、伊達藩、米沢藩のお米を江戸に運ぶ回船の出入が困難になった際、第4代仙台藩主伊達綱村公が当社にお出でになり、別当に祈祷をさせたら、不思議に大雨が降り、水かさが増え、川口が深くなって、通船が便利になったそうである。藩主は大変お喜びになり、親ら「川口大明神」と大書した額面と、伊達家の家紋「竹に雀」の幕を神社に寄贈されたが、昭和52年(1977年)11月12日の火災で焼失した。明治5年(1872年)11月川口神社と称し、村社に列した。明治42年(1909年)に、高須賀の湊神社、雷神社、箱根田の八幡神社、水神社を合祀した。敗戦後、社格はなくなり、「宗教法人川口神社」となり今日にいたっている。航海安全、大漁満足、五穀豊饒、健康安産、眼病平癒の神社としての信仰がある。
年間の祭祀祭礼・行事予定

春季例祭(神輿渡御)(4月20日に近い日曜日)、秋季例祭(10月20日)、冬至祭(冬至の日)、元旦祭(1月1日)

活動方針(将来の展望)  
活動計画

1年目

教化、神社、祭典を知ってもらう。神社、祭典に地域の方々に来て戴けるような行事等。

2年目

地域の方、子供等に参加してもらえる行事等。

3年目

境内等整備。 

無形民俗文化財指定

指定なし

備 考 第2期過疎地域神社活性化推進施策【施策1】指定神社(令和3年~令和6年6月末日)
  (令和5年2月現在)

 

この神社のその他の事業