過疎地域神社活性化への取り組み

田ノ上八幡神社

令和6年05月27日

 

通 称  
鎮座地 宮崎県日南市大字板敷8178
旧社格 村社
本務兼務の別 兼務
氏子数 約800世帯 約2,000人
神職数 2名
宮 司 佐師 正起
選定理由

田ノ上八幡神社は、江戸時代より飫肥城鎮守神社として地域住民の崇敬が篤い神社である。近年は少子高齢化が進み、鎮座地である日南市は過疎地域市町村に該当する。氏子区域内では空き家や高齢世帯が多くなり、集落によっては祭礼行への参加が困難な状況となっている。

神社の運営については、古くから神葬祭の多い地域であるため、外祭による社入によって成り立っているのが現状である。

「弥五郎神賑行事」は、宮崎県の無形文化財に指定されており、保存会の設置を1期目に行っている。

「弥五郎神賑行事」は、都城市山之口町鎮座の的野正八幡宮、鹿児島県曽於市鎮座の岩川八幡神社の三社のみに伝承されており、この三社による広域的な連携と神事の発展を見据えた施策を展開する。

神社の由緒と概要

『日向地誌』によると、彦火火出見尊、豊玉姫、応神天皇を祀るとある。大隈国桑原郡に稲津弥五郎というものがおり、その地の一宮八幡の御神体を背負い来て、この地に祀ったという。社殿は天永元年(1110)庚寅10月25日創建すると伝える。島津氏が飫肥を領した時代にも大いに崇敬したが、伊東氏の飫肥初代藩主伊東祐兵(報恩公)が楠原八幡原にあったのを現在地に遷座したともいわれる。(天正16年、『日南市史』による)伊東氏が藩主となってからも、領内尊社四座の一つとして社禄54石8斗を寄附し、尊崇が篤かった。明治4年、寄付禄も廃止されたが、同5年鳶が峰西麓の春日大明神、今町の北にあった広木田大明神、加茂東隈の加茂大明神、中島田東麓の糺大明神、願成就寺原の北の大将軍の五座を合祀し、板敷神社となった。

明治24年に再び田ノ上八幡神社と改称され、同40年2月、神饌幣帛料を供進すべき神社に指定された。

明治5年までの10月25日の例大祭には、流鏑馬2頭が祭りを盛り上げ、長人弥五郎の偶人形が町内を練り歩いた。

流鏑馬はいつかすたれたが、竹籠を編んだ1丈半以上の巨人の人形が衣袴を付け、長刀を帯び、右手に長槍をつかせ四輪車で子供たちがひく弥五郎の神賑行事は、いまなお続けられている。

「神社明細帳」によると、境内神社1社、末社門守神社、祭神豊石窓神櫛石窓神。

境内の楠は、伊東祐兵が楠原字八幡原にあった八幡神社を天正16年(1588)、現在地に移した記念に、祐兵自身が手植えしたと伝えられている。樹齢400年といわれ、日南市の天然記念物に指定されている。

年間の祭祀祭礼・行事予定

歳旦祭(1月1日)、紀元祭(2月11日)、天長祭(2月23日)、祈年祭(3月17日)、大祓式(6月30日)、祇園祭(7月第4日曜日)、例大祭(11月第2日曜日)、新嘗祭(11月23日)、大祓式(12月31日)、除夜祭(12月31日)、月次祭(月次祭)

活動方針(将来の展望)

弥五郎様は大隈国隼人族の首長と伝えられており養老4年、宇佐の地にて大和朝廷との戦に敗れ戦死しその後、放生会が行われ、弥五郎神賑行事が行われるようになった。弥五郎神賑行事は、宮崎県都城市山之口町の的野正八幡宮、鹿児島県曽於市大隈町岩川八幡神社、当社の3ヶ所しかなく、令和2年に朝廷との戦より1300年を迎えた。

これを機に氏子崇敬者の協力のもと弥五郎神賑行事はもとより、氏神神社として氏子意識の高揚をはかる活動を行い、その振興をはかる。

また、教化事業を継続し定着させ、神社改修協賛活動を展開し改修を行う。

活動計画

1年目

・氏子意識の教化をはかる。

・弥五郎神賑行事を行う3社との連携をはかる。

・弥五郎千三百年祭を斎行する。

2年目

・氏子意識の教化をはかる。

・弥五郎神賑行事を行う3社との連携をはかる。

・弥五郎千三百年祭を斎行する。

3年目

・教化活動の継続

・本殿改修

無形民俗文化財指定

日向の弥五郎人形行事―文化庁選択無形民俗文化財・宮崎県指定無形民俗文化財

https://www.miyazaki-archive.jp/d-museum/mch/details/view/2025

備 考 第2期過疎地域神社活性化推進施策【施策1】指定神社(令和3年~令和6年6月末日)
  (令和5年2月現在)

 

この神社のその他の事業