神社本庁

日本人の霊魂観―靖國神社信仰の底流―

前近代の人を神として祀る習俗

 一般に日本人は、自然に宿る神々をあがめ、自然を崇拝してきた民族とされています。しかし、先に見たような祖先観・霊魂観のバックボーンからすれば、山川草木の神々のみならず、「尋常ならずすぐれた徳(働き)」(本居宣長)を示すもの、とりわけ人間そのものの中にも神性を見出してきたことは、きわめて自然なことといえます。

 早く『古事記』『日本書紀』の神話伝承には、天照大御神の石戸隠れや、須佐之男命のオロチ退治等々、皇室の始祖の神々の、人間的行動を伴った国作りの物語が生き生きと語られています。正史において、人を神として祀った最も早い例は、養老2年(718)、筑後国守であった道君首名(みちのきみおびとな)が、善政を慕う地元民から死後神として祀られたと伝える記事です(『続日本紀』)。平安期に入ると、御霊信仰の流行の中から、かの菅原道真の御霊が、北野天満宮に祀られることになりました。人の御霊が、神社の祭神として祀られた最初の例とされます。これが、今日までも学問の神様として尊崇を集めている天神信仰のおこりです。

 近世に入って、人を神として祀る伝統は、中世の御霊神的性格を脱却します。すなわち、現世で大きな功績を挙げた功労者を、現世の守護神として、神社の祭神として祀る、という信仰が生じてきたのです。

 その最初の事例は、豊臣秀吉を祀った豊国神社です。秀吉には、生前から、自ら神としてこの世にとどまり、秀頼ら子孫を守護し続けようという宿願がありました。こののち、こうした信仰は、徳川家康を祀る東照宮に受け継がれたのです。長州の毛利家、会津の松平家等々、全国の大名家においても、家々の創業者たる藩祖に神号を贈り、家の祖神として祀ることが行われるようになります。

 将軍・大名層のこうした動向に相呼応して、近世の地域社会においても、人を神社の祭神として祀る風習が盛んになってゆきました。こうした祭神の多くは、地域社会を開発した豪農や、水利・灌漑事業に生涯を捧げた庄屋、善政を敷き地元民から慕われた代官、さらには百姓一揆を指導して自ら命を投げ出して村落を救済した農民等々であり、その多くは、民間から自発的に生じてきた信仰でした(『郷土を救った人々』神社新報社)。

 こうして江戸時代には、公のために傑出した功績を挙げた人、地域公共のために身命を捧げた人を、畏き「カミ」として祀る風習が普及したのです。このような近世の「人を神として祀る習俗」の展開が、英霊を神として祭る靖國神社の、一方のバックボーンとして作用していったのだと考えることができましょう。