神社本庁

神道

神の概念

 神の概念、日本人が神社に奉祀している神を理解する為には、これをGodと翻訳して来たことから結果される先入観を払拭しなければならない。神道には自然及び人間をも創造した、この世界を超越する絶対神の信仰はない。古代の日本人は、物質と霊とを区別することが無く、総てを霊的な存在として認識していた。物と物の示す働きとを区別していなかったと言っても良い。神道神話によれば、宇宙の始めに一つの物が在り、それが分かれて天地となり、その天から神々が出現され、最後の夫婦(めおと)神が御子神達と日本の国土・自然及び国民とを生まれたと伝えている。この伝承が神道信仰の出発点である。従って神道では、神々と自然及び人間との間に存在としての本質的な相違・断絶を意識していない。基本は生成力の信仰であると言うことも可能であろう。しかし神道は総ての働きを神とする汎神教ではない。敢えて定義するとすれば、18世紀後半の国学者本居宣長による試みが今日最も広く受け容れられている。即ち「尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳(こと)のありて可畏(かしこ)きものをば神とは言ふなり」とするのである。徳とは他に影響を及ぼす大きな力、働きの事であり、人間にとって好都合であり幸いを齎(もたら)すこともあるし、逆に不幸や災いを齎すこともある。当然、自然や人間も神とされる可能性を与えられている。本来この国の人も自然も、神の生みの子なのだからである。しかし、自然や人間の総てが神なのではない。そこには、人間の生活にとって特に大きな働きを示すものという多神教の原理が働いており、自然の場合には雨の神・風の神・山の神・海の神・川の神・雷神など、特に人間の生活に深く関係し、大きな影響力を示す対象に限られ、人間の場合には死後年を経て祖霊となって個別の家毎に祀られはするが、神社に祭祀されるのは特に国家社会に大きな貢献を成就した者に限られ、生きている場合には特にその霊威の優れた者に限定されている。西洋の宗教学者は、長く自然の霊威を畏こむ人間の姿勢を自然崇拝の名で呼んで来たが、神道では決して西洋人の言う物質として一定の法則に従って働く自然を人格化し、或いは神格化して礼拝しているのではない。自然の中で人間の生活に特に大きな影響を及ぼす力そのものに神霊を感得し、その神霊に祈念し礼拝しているのである。人間ではない動物などの霊は「もの」と呼ばれ、時に人間の生活に害を及ぼすと信じられても来た為に、これらの霊を慰撫する為の祭りをも行って来た。現在でもこの信仰は生きており、例えば大学の医学部で実験の為に殺された諸動物の霊を慰める目的で、神式或いは仏式の宗教儀礼を行ったり、針や履物など人間の生活に役立った人間の工作物にも同様な慰霊が行われ、原子力発電所やコンピューター工場の開所式に、人間・機器等に災いが起こらず、労働と生産とが正常に行われるよう祈念して神道の祓え儀礼が執行されたりしている。神霊の場合も同様で、それは霊的働きとして受け止められているから、人間に不幸や災いをもたらす禍津日(まがつひ)神も信じられており、平素は我々を守護し恵みを与えられる神も、時には怒りを発して不幸を齎されることも有り得るのである。従って常に神祭りを忘れない事が信仰実践の肝要事とされている。神道が多神教であることについても注意を喚起して置く必要があろう。この問題の理解を助けるために、神の観念を真理認識の問題に置き換えて考えて見る事が混乱を避けるのに有効であると思われる。即ち絶対的な一神を立てる宗教の場合、物事には必ず真理、その事の正しい在り方があり、かつそれはただ一つに限るとする考え方が支配的であるように思われる。従って、争い事が生じた場合、そこではどちらか一方が正しく、当然、他方は誤りであり、不正義・悪であるとされる。しかし多神教、つまり多元真理論の立場では、完全・絶対の真理は存在しないと考えられており、従って双方に正義も誤りも共にあるとする考え方が成立する。争いは当然、両成敗という事になるのである。此の事を普遍と特殊とに置き換えて考えてみると、普遍真理を信奉する立場は、共通の真理観を奉ずる者達の問でなければ、共存することが不可能であると考えられ勝ちであるが、多元真理観に立った場合には、個別の個別性にこそ真理があると考えられるので、常にお互いの譲り合いによって共存が可能であると考えられている。調和による共存である。多神教である神道はそのような真理観に立っている。神道〜この場合、日本人と言っても良い〜が長い歴史を通じて、仏教・儒教・陰陽道などを受入れ、これらと習合して来たのも、根本にこのような多元真理観があったからだと考えられよう。事実、神道の神話では、全智全能の神は語られていない。国生みの神も最初は失敗し、正しい方法を天上の神々に問うたところ、天上の神々は占いに拠って方法を定めるよう答えている。最高神天照大神さえ、弟神と心の真実を判定する争いに敗れているし、唯一例外的な能力を持つ神として語られている久延毘古(くえびこ)神も、世の中総ての事を知りながら、一歩も動けぬ神なのである。