神社本庁

神々の森の文明

ヨーロッパにおける森のイメージ

 だが残念なことに、二コル氏のようなヨーロッパ人にとって、森は決して聖地ではなかった。キリスト教化される以前の古代欧州世界では、深い森林地帯で狩猟するゲルマンやケルトの諸民族が森に棲む神々を畏敬する〈森の宗教〉を営んでいたが、ローマ帝国の征服が及んで、やがて彼らもキリスト教徒に改宗すると、森は一転して邪悪な魔ものや狼のような恐ろしい野獣が棲む異界と化した。中世では、教会が支配する都市や農村が神聖な神の世界を構成し、周辺の自然や森林は、いずれ神の栄光の下に征服さるべき野蛮な闇の世界とみなされたのである。
 そのことについては、例えば、スタンフォード大学のロバート・ハリソン教授がその著書『森−文明の影』※2のなで、古代ギリシャ・ローマの時代から近代にいたるまでの西欧文明で、森林がいかにカオス的な負のイメージを帯びてきたかを、文学、思想、芸術にわたって論じている。また、永く日本文化を研究しているフランスの文化地理学者オギュスタン・ベルク氏も、その著書『風土の日本−自然と文化の通態』※3で、日本の伝統文化における森林や自然への親和性を「フィジコフィリー(自然愛好)」が支配する傾向として、これがキリスト教の伝統とは全く相反するものとし、「キリスト教の伝統はむしろフィジコフォビー(自然嫌悪)の支配的な傾向を見せ、創造された自然、人間においても(原罪により)、環境においても(征服し、福音を伝えるべき異教の自然というテーマとともに)、悪として存在する自然という概念形成がなされてきた。」とさえ指摘している。
 こうしたキリスト教の世界観をもつ西欧人にとっては、天然の景勝や森林を、そのままで聖地とみなすことは不可能であったし、むしろ、そこを伐り開いて教会を建て、人工を施した庭園にして、神の栄光を示す秩序の世界に仕立てることが主眼となった。

※2:シカゴ大学出版会 1992年
※3:ちくま学芸文庫 1992年