神社本庁

祭りのパラダイム(理論的枠組み)

儀式と祝祭

 まず一般的考察から見るに、神道の祭りは対照的であり同時に補足し合う二つの要素、儀式と祝祭から成り立っていると考えられる。ここでいう「儀式」とは、厳粛な雰囲気のなかで定められた形式に則って儀式的に行われる象徴的行為である。一方「祝祭」とは、自発的に混乱の中、興奮した状態で行われる象徴的行為といえる。
 神道の祭典では普通、この儀式が一義的要素であり、祝祭的要素は二次杓、副次的なものである。祝祭は神道祭典で行われない場合もあるが、しかし全ての「祭り」に共通する要素である。
 神道の儀式と祝祭の進め方は日本人が客をもてなす方法と非常に似通っている。(注2)このもてなしの方法は次の5つの段階に分けることができる。まずもてなしの準備、次に家の外で客を待ちもてなしの場に招きいれる。食事を出し、お互いに交流をし、そして最後に客を見送る。
 儀式もこれに似た5段階を含むと考えられる。つまり修祓、献饌、祝詞奏上、昇神、直会である。第一段階の修祓は清掃や洗浄を表わす象徴的行為であり、儀式の参加者および儀式が執り行われる場所から全ての罪と穢れを取り除くための儀式的行為である。第二段階では、神職が声を発する「警蹕」(けいひつ。厳かな儀式的な告示の儀式で、ここでは祭祀関係者に「降神にあたり畏みを促す」ことを意味する)という象徴的行為により神を斎場に呼ぶ。そして神殿の御扉を開けるが、この時に古典的楽器である琴の演奏が行われることもある。第三の段階では、特別に用意された種々の食物を神に献上する。この段階は人々が参加する段階と見なされ、神と人間の交流に重きが置かれる。神職による儀式的祈り(祝詞)や参列者の敬神は全て、神の恩恵を全員で分かち合うことを意味している。古代神道では、美しく敬神的な言葉は神の善意を促し、不適切な言葉は神の怒りを呼ぶと信じられていた。効果的な「祝詞」による敬虔な交流(呼びかけ)は、神の慈悲をうながすばかりでなく、祭りに参加する人々に神の恩恵がゆきわたるようにするものである。最後の段階は神を送るのであるが、ここで再び「警蹕」(ここでは「昇神にそなえて畏み」をうながす)という象徴的行為が行われ、琴の音と共に、あるいは音楽なしで、閉扉が行われる。
 このような5段階の儀式的行為で象徴される主題は、神を呼ぶことと、神が与える恩恵に浴するということ、と定義してよいであろう。神道の宗教的範疇では、生命力というモチーフは「命への参加」という言葉で要約されると思われる。
 祝祭も同様に5段階に従っていると考えられる。まず、神聖化、動きの準備、活発な動き、アニメーション(躍動)、そして静止。第一の段階は準備の段階であり、潔斎を行ない、斎戒、断食、度々の沐浴等の禁欲的行いにより俗世界から断絶した状態で各々の役割に従って準備をし、祭りの衣装と面を付ける。この段階は神霊が特別に人々の上に宿る。人々は神の代理であり、神霊が憑り移っている状態である。例えば御輿の担ぎ手はすなわち神霊を宿す者となる。第二の段階は、象徴的な神の乗り物、御輿の出現であるこの御輿を担いでの行列が神社から出発するということは、神がその氏子の生活空間に出現することであり、また祭りの象徴的な行為が起きる場所へ神を導くことでもある。第三の段階は御輿を担ぐ人々のリズミカルで活気に満ちた動きの段階であり、その興奮は祭りを行っている人々も見物する人々をものみ込んでゆく。第四の段階は集団的興奮の極みであり、その時には祭りの行為者と見物者との区別も消し去られる。この集団的エクスタシーの状態が神と祭りの参加者との間の生命の流れであり、神と参加者との区別を消すばかりでなく、神の生命力をも増す流れを象徴している。最後の段階は、祭りの参加者の行為が静まり、神に静謐(せいひつ)がもどる段階である。
 これらの五つの段階の中心となる主題は神と人々双方の生命力が満ちるということであろう。この主題は、ここで「生命の躍動」と同一となるのである。

(注2)今日では多くの世俗的な祭りがある。例えば、歌まつり、芸術祭、民謡まつり、売りだしまつり、平和祭などである。このような祭りには多くの人出があり、それが祭りの特徴といえる。